藤川哲の最近のブログ記事

3ヶ月間の担当も今日で終わりです。こうした機会を頂いたことにあらためて感謝しています。

神奈川県立博物館、福岡市美術館、山口情報芸術センター、秋吉台国際芸術村の方々には写真の撮影や手配のほか、さまざまなかたちでご協力を頂きました。本当に有り難うございます。

また、ウェブサイトの編集担当の方には、いつも画像のリサイズで助けて頂きました。お陰さまで希望通りの表示が実現しました。有り難うございます。

執筆を担当していて一番嬉しかったのは、やはり「ブログ読んでます」と声をかけて頂いたり、メールでコメントを頂戴したことです。読者に励まされる、ということを強く実感しました。そうしたきっかけで沸き起こる熱い気持ちは、言葉で言い尽くせないくらいです。


最後に、山口のことをもう少しだけ紹介します。毎朝、自転車で大学まで通っていますが、その途中で川を渡ります。市の中心部を流れる椹野川です。この川は豊かな自然の息づく清流で、もう少ししたら、鮎漁が解禁になったり、支流では蛍が飛び交うのが見られます。

普段は、鯉やフナが泳いでいます。春先の夕暮れどきに、稚魚が一斉に川面から跳ね上がる景色は、山口へ来て初めて目にしました。

私は長崎の割と街中で育ったので、カワセミやキジを見たのも初めてでした。いずれも通勤途中に見つけて、ハッと息を飲む思いをしました。カワセミの体の青色は、光を発しているようにさえ見えます。

大学構内でもさまざまな野鳥を目にすることができます。

山口で好きな風景は、鏡のようにぴんと水の張った水田が一面に広がる初夏の景色と、あぜ道沿いに燃えるように紅く咲いた彼岸花が列を成している初秋の光景です。

国際美術展について資料を集めたり、海外から滞在制作のために招聘された美術家たちと交流し、最先端の情報芸術にも触れる機会もあって、それでいて豊かな自然に囲まれている、とこう書くとあまりにいいことずくめに過ぎて、かえってうまく伝わらないかも知れませんが、私は、自分でひとつの理想的な環境を生きている、と日々実感しています。

最初に書いた通り、私たちひとりひとりが生きている場所が「独楽の落つるところ」であり、世界の中心だと思いませんか?

ここまで読んでくださった皆さまにもう一度感謝の気持ちを込めて、ご多幸をお祈りしつつ筆を置きます。


またどこかでお会いしましょう。


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椹野川(正面に見えているのは井出ヶ原橋) 2009年4月30日8時12分(晴れ)

2007年はヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展(6/10~ )、アート・バーゼル(6/13~ )、ドクメンタ(6/16~ )、ミュンスター彫刻プロイエクテ(6/17~ )が連続的に開幕した年でした。

この開幕の順に沿ってイタリアからスイス、ドイツへと北上して行った美術関係者の多くは、だんだんと天候が崩れ、緯度も高くなって肌寒い思いをしたと聞きます。私は、かつてバーゼルの宿を確保するのにかなり苦労した記憶からアート・フェアを割愛し、ドクメンタの開幕に合わせてヨーロッパ入りしてカッセルからミュンスター、ヴェネツィアへと移動する旅程を組みました。現地では、ほとんど同じ旅程で移動していた関西の美術関係者の一団と出会い、一緒に夕食を楽しんだりもしました。

同じ2007年の9月、日本では新たに2つのビエンナーレが開始されました。北九州国際ビエンナーレ(9/28~10/31)と神戸ビエンナーレ(10/6~11/25)です。また、現代日本彫刻展の名称で1960年代から続いてきた宇部市主催の野外彫刻展も07年から国際化してUBEビエンナーレを名乗るようになりました(9/29~11/11)。さらにほぼ同じ時期、BIWAKOビエンナーレも開催されていたので(9/30~11/18)、この2007年秋は日本でもビエンナーレの集中が見られた年だったと言えます。

もうすぐ発売される芸術批評誌『リア』に「ビエンナーレ化現象と国際美術展史料館」という一文を寄稿しています。ちょうどこの回想を投稿し始めたころに書いた小文です。国際美術展が増える中、展覧会本体の充実と並行して、開催ごとに入手される資料を蓄積して有効活用する体制も整えるべきだ、という意見を述べています。

4月に入って昨年度入手した資料を整理していたら、『マニフェスタ・ジャーナル』第6号が「アーカイヴ特集」でした。ラファル・B・ニーモエウスキ(Rafal B. Niemojewski)さんの論文もまた、ビエンナーレ化現象を総括し、史料館の活動に着目する論文で、親近感を持つと同時に、彼我の間にある言語の壁と時間のずれを意識させられました。ニーモエウスキさんの論文は、2005年冬号の掲載でしたが、同ジャーナルは予算不足のためにしばらく刊行休止になっており、昨年冬になってようやく4-6号の合併号を送ってきたのでした。

同誌の執筆者紹介によれば、ニーモエウスキさんはロンドン王立美術学校で、国際美術展の増加現象について博士論文を準備中とのことでした。多分、もう仕上がっているのではないかと想像します。

ニーモエウスキさんに限らず、アメリカやヨーロッパ、そして日本の大学でも国際美術展を主題とした論文が少しずつ書かれるようになってきているようです。

国際美術展の図録に掲載されている論文の中には、企画者や研究者、作家によって書かれた興味深い内容のものが非常に多く含まれています。特に地球規模化や多文化主義と現代美術の関係を論じた文章に示唆に富むものが見られます。

国際美術展の図録は、美術大学の図書館や美術館の図書室などで閲覧できると思います。より多くの人びとに関心を持ってもらえるよう願っています。

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ドミニク・ゴンザレス=フォレスター《ミュンスターの小説》(過去のミュンスター彫刻プロイエクテ出品作品の模型) 2007年6月19日12時15分(晴れ)

今年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展は77カ国が参加予定です(同展公式サイトより)。

この数は、国連加盟国が現在192、オリンピックへの参加国・地域の数が200強ですから、その1/3程度です。

ヴェネツィア・ビエンナーレは、現在開催されているものの中では最大の参加国数を誇りますが、それでも数の上では参加しない国の数の方が2倍近くある、ということはいつも心にとどめておきたいと思っています。この差は肯定的にも否定的にも考えることができます。

ところで、最近ヴェネツィア・ビエンナーレが開催される年とされない年では、はっきりとした違いが見られるようになりました。私は、同展が開催される奇数年を「表の年」、開催されない偶数年を「裏の年」と表現することにしています。今年は表の年であり、去年や2006年が裏の年です。

1980年代から国際美術展の開催は非欧米圏へと拡大し、90年代、2000年代を通して現在まで、欧米圏・非欧米圏を問わず増え続けています。そして、新設される国際美術展がビエンナーレ(2年ごと)である場合、その多くはヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展が開催されない裏の年に開催される傾向が見られます。また、表の年に開催される場合でも、同展が開幕する6月ではなく、9月から11月の開幕とし、競合を避けているように思われます。ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァースのビエンナーレ・カレンダーを見ても、トリエンナーレも含めた2008年の開催数が32あったのに対し、今年2009年の開催数は約半数の17です。

つまり、国際美術展を見て回ろうとしたとき、裏の年は数が集中しているので、予算や日程の面で調整や熟考が必要になります。

そうした状況を踏まえて、複数の国際美術展の主催者が連携し、開幕日をそれぞれ少しずつずらすことで、関係者が一度のツアーで回れるような工夫が見られるようになってきました。

私の知る限り、そうした調整の最初の試みは、2006年のシンガポール、上海、光州の各ビエンナーレ間での取り組みだったと思います。そして、この時点では特に名称はありませんでした。

しかし同年秋には「トレ・ビエン」という名称のもと、イスタンブール、リヨン、アテネの3つのビエンが協力体制を打ち出しました。さらに、2007年には、ヴェネツィア、ドクメンタ、ミュンスターが重なる10年に1度の機会をとらえて、アート・バーゼルを加えた4都市を結ぶ「グランド・ツアー」が組織され、翌2008年には、シドニー、光州、上海、シンガポール、横浜の5つの国際美術展が連携する「アート・コンパス」、台北、広州、上海が連携した「三館互動」が誕生しました。

2006年には、日本でもA.I.T.とJALの共同企画で「3大ビエンナーレ・ツアー」の募集がありました。私もこのツアーに参加しましたが、A.I.T.の教育プログラムの受講生や、学芸員、新聞記者、美術評論家など職種や世代の異なるさまざまな方々と交流できて、とても貴重な体験となりました。

このツアーは2008年には同種のものが実現しなかったことを考えると、今後定着するかどうかまだ判断の難しいところですが、複数の国際美術展を比較することが、現代美術に対する新しい洞察へとつながる時代が到来している、ということは言えると思います。


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シンガポール・ビエンナーレ開幕式での草間彌生「ファッション・パレード」(パダン広場特設ステージ) 2006年9月1日21時27分(晴れ)

2005年から2007年にかけての3年間は、文部科学省の科学研究費補助金を得て、シンガポールや上海、台北、ブリスベン、サンパウロなど、これまで出掛ける機会のなかった国際美術展も含めて集中的に見て回ることができました。

研究課題名は「国際美術展における脱欧米中心主義の興隆の経緯についての研究」と、やや長いのですが、文化のグローバリゼーションについて均質化や画一化でない側面を見ていこう、という姿勢を「脱欧米中心主義の興隆」という言葉に表したつもりです。

グローバリゼーションをもじったものか、「ビエンナリゼーション」という言葉があります。国際美術展について豊富な情報を提供しているドイツのサイト「ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァース(Universes in Universe)」の編集者ゲルハルト・ハウプトが2000年頃に使い始めた言葉だと言われています。

『アートネクサス(ArtNexus)』という雑誌の現物は見たことがないのですが(コロンビアのボゴタで刊行されている雑誌のようです。武蔵野美術大学に英語版が所蔵されています)、ネット検索で国際美術展についての批評記事を見つけました。カルロス・ヒメネス(Carlos Jiménez)によるその記事は「ベルリン・ビエンナーレ―アンチ・ビエンナリゼーションの見本?(The Berlin Biennale a mode for anti-biennalization?)」と題されており、2004年7-9月号の掲載で、「ハウプトが数年前に使い始めた言葉だ」と指摘しています。そこから逆算して、私は2000年頃だろうと推測しているのですが(ユニヴァーシズ・イン・ユニヴァースのビエンナーレ・カレンダーも一番古い情報は2001年のものです)、この件については、いつか実際に本人に確認してみたいとも思っています。

私自身がハウプトのサイトでビエンナリゼーションという言葉を見つけたのは2004年2月16日より少し前です。ある論文の註にサイトを閲覧した日付を入れているので、そのことが確認できるのですが、否定的な文脈で語られていた、という印象以上のものを残していません。ビエンナーレ・カレンダーのページに添えられた数行ほどの短いコメントの中にあった言葉だったと記憶します。また、当時はビエンナーレ・カレンダーの表題の位置に「キャラヴァン」という単語が掲げてありました。キュレーターと美術家たちを隊商に見立て、同じ顔ぶれが世界中を旅している印象を喚起することをねらったものだと思います。このキャラヴァンの表示も2006年頃までは残っていましたが、今は過去の分も含めて削除されています。

結局、ハウプトがビエンナリゼーション―「ビエンナーレ化現象」と訳したいと思います―という批評を国際美術展をとりまく状況に投げかけた時点、確かに90年代を通して同質化の危機はあったと言えるかも知れませんが、むしろこうした否定的な側面は2000年代の実践の中で解消されていった、と考えることができると思います。

2005年の横浜トリエンナーレが「場にかかわる」ということを重視して個性化を図ったのと同じ問題意識が、他の多くの国際美術展でも共有され、実践されているように感じます。

日本国内だけを見ても、2009年の現在、横浜以外にも福岡や越後妻有、2010年に始まる「あいち」を含めて4つの大きなトリエンナーレがあり、ほかにも神戸や北九州、BIWAKOやUBEなどのビエンナーレがありますが、それぞれ実に個性的です。

2005年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の印象も2003年と一転してすこぶる良く、このとき初めて―文献上評判の悪い―日本館の人造大理石の床を目にしましたが、石内都さんの展示とよく映え合っていて、とても美しく感じました。

どんな状況にも創造的に対峙する、という取り組み姿勢が大切な気がします。

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ヴェネツィア・ビエンナーレ第51回国際美術展 日本館の展示風景=石内都「マザーズ 2000-2005 未来の刻印」 コミッショナーは現・東京都写真美術館の笠原美智子さん 2005年6月15日13時09分(外は晴れ)

※4月25日から6月14日まで、群馬県立近代美術館で「石内都 Infinity ∞ 身体のゆくえ」が開催されます。石内さんは群馬県桐生市のお生まれです。


2004年に研究助成が得られことが決まって、先ず行ったのはマニフェスタ5の記者登録でした。プレス・プレヴューとも呼ばれる内覧会・開会式に参加するためです。記者登録は、ほとんどの国際美術展で、公式サイトから行えます。「Press accreditation(記者認定)」をクリックし、申込フォームに必要事項を入力。後日電子メールで送付されてくる書式を返送します。

かつて、国際美術展の展覧会場での撮影は大らかなものだったと記憶します。記者登録の必要性を感じたのは、2003年の第7回リヨン・ビエンナーレで会期中の撮影許可が下りなかった経験からです。会場撮影は内覧会の日のみに限定する、という方針です。一方、同じ調査旅行で回ったヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展では、そうしたことはありませんでした。

リヨン・ビエンナーレの事務局は、代わりに記者資料として作品画像の入ったCD-Rをくれました。しかし、日本に帰って中を見てみると、出品作家の過去の作品が中心で、展示されていた作品とは異なる写真が随分ありました。設営美術を中心とする現代美術展において、開幕と同時に発売される展覧会図録には、実際に会場で見ることのできた作品ではなく、図録刊行に間に合わせられた過去の作品写真が用いられるのが一般的です。リヨンの記者用CDは、図録に掲載されている図版とほぼ同一でした。

しかしながら、第7回リヨン・ビエンナーレでは2種類の図録が刊行されることになっていました。「アヴァン(事前)」と「アプレ(事後)」と題され、「アプレ」の方に会場写真が収録されています。展覧会終了後や会期中に、こうした記録集が刊行される例はいくつかあります。リヨンの第7回展のほか、ドクメンタ11、横浜トリエンナーレの第2回展(2005)年と第3回展(2008年)が、私の知っている例です。国際美術展の全体数に比して、ごく少数と言えます。

そうした中で、国際美術展の開催に合わせて、ふんだんに作品図版を掲載して特集号を組んでいるドイツの美術雑誌『クンストフォルム(Kunstforum)』や日本の『美術手帖』は貴重な情報源です。しかし、こうした雑誌でさえ、すべての出品作品を網羅してはいないのです。自分で撮影できなかった分については、各作家やその扱い画廊、そして展覧会主催者が蓄積しているであろう記録写真が最後の拠り所になります。


2004年のマニフェスタ5はバスク地方の観光都市ドノスティア=サン・セバスティアンで開催されました。内覧会は6月10日に行われ、翌11日午前中に記者会見、夕方には討論会、夜7-8時頃にジェレミー・デラーの企画による開幕パレードが行われました。

このうち、記者会見では「スペイン人作家がバスク出身のイニャキ・バルトロメ、アシエル・メンディサバル、D.A.E.の2人と1組、およびガリシア州出身でロンドン在住のアンヘラ・デ・ラ・クルスだけだったのには、政治的配慮があるのか」という質問に企画者の1人マッシミリアーノ・ジオーニが「国籍はまったく顧慮していない」とかわし、その直後に「王に死を(¡MUERTE AL REY!)」と書いたボードを掲げた女性が立ち上がり、液体の入ったペットボトルを主催者席に投げつけようとした男性が取り押さえられる、という顛末を目撃しました。

この2004年6月、バスク地方へ列車で乗り入れるための基点としてマドリードに滞在したのですが、同地のプラド美術館では、三脚を使わずフラッシュを焚かなければ作品の撮影ができましたが、2006年10月からは展示室内の写真撮影が禁止となりました。

デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及で、フィルムの残量を気にせず、持ち運びにも気にならない機器を使って大変気軽に写真撮影を楽しめるようになってきた一方で、撮影禁止区域の設定や許可制度の徹底もまた広がりつつあるように思います。


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マニフェスタ5記者会見での一幕 2004年6月11日11時58分(外は曇り)


2002年4月に山口大学へ着任して以降は、毎年、何らかの国際美術展を見に出掛けています。

研究テーマを国際美術展に絞ろうと考えたのは2003年秋頃です。2002年にドクメンタ11とマニフェスタ4、そしてカールスルーエのZKMで開催されていた「イコノクラッシュ(Iconoclash: 造語、Icon 偶像+clash 衝突)」展を見るためにドイツへ出掛けた時点では、デジタルカメラはまだビクターのGC-S1(98年3月発売)を使っていました。

当時のデジタルカメラの性能が格段に向上していることを認識できたのは、再び国際美術展のスライドレクチャーのおかげです。高価な電気製品は基本的に長く大切に使い続ける、という信条ですが、A.I.T.の主催で2002年7月に開催された「第11回ドクメンタを考える」(東京、スパイラル)で見た作品画像と、自分のカメラで撮影した画像の鮮明度の違いは悲しくなるほどに大きく、質素倹約の思想の一部を切り崩してでもデジタルカメラを買い換えねばならない、という気にさせられました。

それでもおそらく控え目と言えるニコンのCOOLPIX 3100を携えて出掛けた2003年の第50回ヴェネツィア・ビエンナーレを見終わった直後、私は、もうヴェネツィアに来るのはやめよう、と考えました。

第50回展の総合監督を務めたフランチェスコ・ボナーミは、「観客の専制」という副題を与えていましたが、アルセナーレの展示から受けた印象は、むしろ逆で、観客や出品作家をないがしろにし、展覧会の企画者の名前ばかりが飾り立てられているように思われました。同展の国際企画展部門は、複数の展覧会から構成されるオムニバス形式となっており、各会場の入口には、展覧会のタイトルとその展覧会を企画したキュレーターの名前が大きく表示されていました。言っていることとやっていることが違う。これではまるで「キュレーターの専制」だ、と腹立たしい気分になったのです。ボナーミには、「キュレーションのさまざまな方法論を比べる」という意図があったようです(『美術手帖』2003年9月号、42頁)。

そしてこの義憤に似た感情から、私は国際美術展を本格的に研究するための助成金申請書を書き始めました。

「国際美術展とグローバリゼーション―展覧会企画者の理論と実践」として財団法人花王芸術・科学財団の2004年度の芸術文化助成に応募し、幸いにも40万円の研究助成を得ることができました。

同研究課題につけた英語の副題が「Curator's Discourse and Audience's Experience(企画者の言説と鑑賞者の体験)」です。研究に取り組んだ1年のうちに、グローバリゼーションに関する基礎的な文献を読み、国際美術展図録の収集を拡充し、マニフェスタ5と光州ビエンナーレという欧州とアジアの国際美術展を比較しつつ、ビエンナーレ化現象(Biennalization)について考察することができました(マニフェスタと光州ビエンナーレは、ともに2004年に第5回展を迎え、それぞれ約10年の歴史を持っていました)。

また、あれこれ考察していく過程で、当初の怒りの矛先は、結局、展覧会企画者の意図というものは、展覧会の中にうまく実現できる場合もあれば、できない場合もある。思いが先走ることはむしろ多いのかも知れない、というごく当たり前の事実に思いが至って、随分と収まりました。「結果的な言行不一致」という理解です。

ところで、最近大阪でヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展のイスラエル館で見た作品と再会しました。ミシェル・ロブナーの《Order》と《More》で、出品されているのは新しく再編集されたものです。この作品のほかにも第48回展の日本館に出品された宮島達男の《MEGA DEATH》が展示されている「インシデンタル・アフェアーズ―うつろいゆく日常性の美学」(サントリーミュージアム[天保山]、5/11まで。企画・構成:大島賛都)は、国内の所蔵品をうまく活用しつつ、現代作家17名の質の高い作品を会場にバランス良く配した、とても好感度の高い企画でした。

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カステッロ公園の並木道(画面左の椅子を乗せた木の切り株はクリストフ・シュリンゲンズィーフ《恐怖の教会》の部分。砂利道の中ほど右側の大きなパスポートはサンディ・ヒラル&アレサンドロ・ペティ《国境なき国家》) 2003年9月18日11時17分(晴れ)


前回紹介した通り、2001年の第49回展にゼーマンは伊・英・独・仏の併記で「人類の舞台:プラテア・デル・ウマニタ/プラトー・オブ・ヒューマンカインド/プラトー・デア・メンシュハイト/プラトー・ド・ルマニテ(Platea dell'Umanità / Plateau of Humankind / Plateau der Menschheit / Plateau de l'humanité)」というタイトルを与えました。

もしこれに漢字やアラビア文字などアルファベット以外の表記も加わっていれば、より一層国際性や地球時代性を表現できたかも知れませんし、かえって「鼻につく」という批判を浴びたかも知れません。

スイス人のゼーマンは複数の欧州語に通じていました。伊英独仏の4言語に限ったのは、自らの守備範囲に自覚的な態度だと思えます。前回も引いたインタヴューで「アフリカ現代美術の動向を展覧会に反映できているか」という質問に、「アフリカについては、まだ一度も訪ねたことがないから作家を選出するのは難しい。ジュネーヴの現代美術館で見たキンゲレーズなどには関心を持っている」と答えていたくだりが思い出されます(『アートプレス』1999年6月号)。こうしたやりとりから類推されるゼーマン像は、自分の拠って立つところを的確に分析した上で行動の指針を決めていく人物です。

2001年の「人類のプラトー」という表題は、私にとって悩ましいものでした。先に耳に入っていた『千のプラトー』が意識にまとわりついていたためです。調べてみれば、「『人類のプラトー』はドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』が霊感源の一つだ、とゼーマンが冗談交じりに語った」という証言もありました(『アートフォーラム』2001年5月号、ダニエル・バーンバウムによる記事)。

ゼーマン自身は同展の図録の中で「この概念は多くの概念を内包している。それはプラトー(plateau)であり、基礎(basis)であり、土台(foundation)であり、プラットフォーム(platform)である」と述べていました(xviii頁)。さっぱり正体がつかめない、といった印象を持ったものです。

「人類の舞台」という訳は、『美術手帖』2001年9月号の小倉正史さんの記事に倣っています。ドゥルーズ+ガタリの「リゾーム」の邦訳からは「台地」という訳語も導かれるため、当初私は「人類の台地」の方が適切とも考えていたのですが、ある朝、ふとゼーマンが展覧会を「舞台」になぞらえるのには相応の理由がある、と腑に落ちました。

ゼーマンの生涯に関する記事の多くは、彼がベルンのクンストハレの館長に就任し、1969年に「態度が形になるとき」展を企画した辺りから書き起こして、同展の前衛性が問題となって、組織から独立した展覧会企画者の先駆けとなる、という流れでまとめられることが多いため、私自身、意識の表面に引っ張り出すのに時間がかかったように思えるのですが、ゼーマンは彼の経歴を演劇から始めた人でした。

詳しくは、同じスイス人でもあるハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタヴューに書かれていますが、ゼーマンは18歳の頃、友人の役者2人と音楽家1人と一緒にキャバレーを始め、そこで人間関係に嫌気がさして、1955年頃から結局一人芝居を始めた、と語っています(『アートフォーラム』1996年11月号)。

ゼーマンの言葉の中でも特に印象的だったのが「構想から釘まで(From Vision to Nail)」(前出の『アートフォーラム』、112頁)です。思い描いた仕事を実現するために釘を打つことも含めて全部独力でやる取り組みの姿勢として解釈されます。インディペンデント・キュレーターという肩書きと、一人芝居をやっていた経歴は、うまく符合しているようにも思われます。

語の多義性を活かすために「人類のプラトー」と敢えてカタカナ表記することも考えられるのですが、「人類の舞台」とした方が、私は命名者の人生―温もり―が感じられてより良い、と思えるのです。

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リアルト橋から大運河を望む 2005年6月15日20時26分(晴れ)

1999年は、ハラルド・ゼーマンがヴェネツィア・ビエンナーレ第48回国際美術展の総合監督を務めた年です。

ゼーマンは、2001年の第49回展も続投しました。雑誌『アートプレス』の99年6月号に掲載されたインタヴューで、「今後、監督の任期は4年になった」と述べていますから、最初から続投の予定だったようですが、第50回展以降の総合監督は毎回異なるので、4年任期制はゼーマン一代限りとなったと考えられます。

第48回展を、ゼーマンは「全解放:ダペルトゥット/アペルト・オーヴァー・オール/アペルト・パル・トゥ/アペルト・ユーバー・アル(dAPERTutto / APERTO overAII / APERTO parTOUT / APERTO überALL)」と題しました。伊・英・仏・独の4言語表記は、第49回展「人類の舞台(プラテア・デル・ウマニタ...)」にも引き継がれます。

「展覧会はキュレーターの作品か?」といった議論がありますが、最近講義の関係で読み直した佐々木健一さんの『タイトルの魔力』(中公新書)には、「名づけ」という行為そのものが、ひとつのものの見方の提示である、と書かれていました(121頁)。展覧会の題名が、その全体像をうまく言い表していることもあれば、逆に裏切っていることもあるように思いますが、展覧会に題名を与える立場の人は、少なくともその展覧会の作者的な役割を担っている、と言えるでしょう。展覧会がキュレーターの作品化することの善し悪しを別として、キュレーターが展覧会の「タイトルづけ」を介して、そうした立ち位置にあることを論及していくことには意義があると思います。

ドクメンタ(72年)、リヨン、光州(97年)、シドニー(00年)、セビーリャ(04年)など、ヴェネツィア(80, 99/01年)以外にも数々の国際美術展の企画に携わったゼーマンは、2005年2月18日に71歳で亡くなりました。

2005年6月に開幕した第51回展以降、ヴェネツィア・ビエンナーレの主会場にあるスイス館(ゼーマンはベルン生まれ)の外壁には、「ゼーマン通り」という表示が掲げられています。

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カステッロ公園のスイス館 2005年6月15日12時55分(晴れ)

1995年のヴェネツィア・ビエンナーレでフィルムを51本使った話の続きです。

合計1,757枚という数は、当時1本のフィルムで36枚から38枚撮影できたことを考えれば、200枚近く少ない計算になります。ヴェネツィアの風景など展覧会と直接関係のない写真や撮り損じを除いた数、という意味でもあるのですが、より具体的には、100枚ずつPhoto-CD化したものが17枚、そして18枚目のCDに57枚の画像が記録されていた、ということから導き出した数字です。

当時、ネガやポジから画像データに変換して、CD-Rに焼きつけてくれるサーヴィスがありました。93年にもこのサーヴィスを利用して3枚のPhoto-CDを作成しています。

今回、このブログの記事を書くにあたり、先ずそれらのPhoto-CDから画像を取り出してみましたが、768×512ピクセルというサイズは、すでに実用的な水準からこぼれ落ちてしまった感じを受けました。そこで、他の記事で表示している写真と合わせる意味でも、あらためてフィルムからスキャナで取り直してみたところ、サイズだけでなく、色調やコントラストもより好状態の画像が得られました。この分野での技術が日進月歩で向上してきたことを実感します。
 

1997年は、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展とドクメンタX、ミュンスター彫刻プロイエクテの3つの大型展が重なった最初の年です。ドクメンタは1972年の第5回展以降、5年ごとの開催に安定し、ミュンスターは1977年の第1回展以来決まって10年ごとに開催されたので、2つの大型展はずっと重なっていたのですが、1990年代に入って、ヴェネツィア・ビエンナーレが95年に100周年を迎える関係から、93年に、それまでの偶数年の開催から奇数年の開催へと変更したため、3つの大型国際美術展が連続して開幕する「惑星直列」のような周期性が生まれたのでした。今後もいずれかの国際美術展に開催周期のずれが生じない限り、10年ごとに3つの大型展が重なるヨーロッパ現代美術の一大イベントが続くことになります。2007年にはアート・バーゼルも含めた「グランド・ツアー」という協力体制も生まれており、さらなる展開もあり得るでしょう。

私はこれまで1997年、2002年、2007年の3回のドクメンタを訪れましたが、もう少し長く見続ければ、惑星直列の年(97年、07年)とその裏の年(02年)というように、ドクメンタを2つに分けて、対比的に論じることが可能になる、と考えています。
 

ところで、1997年の私は、最初にお話した群馬県立美術館の学芸員になったばかりでした。公務員の1年目で年休は少なかった反面、業務的には先輩方にご協力頂いて秋口に出掛けることができました。夏季休暇や代休も合わせた9月20日から10月4日までの15日間で、パリ、リヨン、ミュンスター、カッセル、ヴェネツィア、ローマを回る計画を立てたのは、限られた日数内にできるだけ多くの展覧会場を訪れたかったからです。

当時私が所持していたデジタルカメラはQV-10Aでした。カシオから96年3月に発売されたヒット商品で、同年4月から水戸芸術館で開催された「水戸アニュアル'96 プライベートルーム」の取材用に購入したので、ほぼ発売直後に入手したことになります。日常的にはかなり活躍しましたが、内蔵メモリに96枚までしか記録できず、長期出張で大量に撮影する予定なら随時パソコンかFDに転送する必要がありました(しかも相当時間がかかりました)。画像のサイズはわずか320×240ピクセル。レンズも固定焦点で、引きのない会場で大きな作品を撮影するのには向いていませんでした。

限られた滞在時間と、撮影のためにノートブックか専用の読み取り装置を携帯しなければならないという煩わしさを考え合わせて、このときの旅行で「見ることに専念する」と決め、撮影そのものを自分に禁じたことは今でも悔やまれます。写真の必要があれば、プロが撮影したものを利用するべきだ、という妙な職業意識を持ってしまっていたとも言えます。この旅行で唯一撮影したのは―つまりそれでもQV-10A本体は携帯していました―リヨン・ビエンナーレの会場で見たクリス・バーデンの《空飛ぶスチーム・ローラー》でした。軍用の巨大なローラー車がメリーゴーランド風に旋回する様子は、写真に撮らなかったとしても今日まで脳裏に焼きついていたかも知れません。そして、むしろ印象の薄かった作品ほど、撮影しておくことの重要性をのちに痛感することになります。

QV-10Aの次に購入したのがビクターのGC-S1でした。しかし、サイズや解像度の点で、現在、使用に耐えられる画像となると2002年9月に入手したニコンのCOOLPIX 3100で撮影したもの以降になってしまいます。

 
20030917blog.jpgヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展の国別参加部門で金獅子賞を受賞したルクセンブルク館のツェ・スー・メイの映像作品 2003年9月17日16時18分(外は晴れ)

※ちょうど今、「ツェ・スー・メイ」展が水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催されています(5月10日まで)。


1993年のヴェネツィア旅行の続きです。

ヴェネツィアへの旅は、海外調査としては3度目で、91年6月のニューヨーク、フィラデルフィア、92年3-4月のヨーロッパ周遊に次ぐものでした。卒論のテーマがマルセル・デュシャンだったので、ニューヨーク近代美術館とフィラデルフィア美術館のデュシャン作品を実見し、修士に進学した年に1カ月近くかけて、ロンドン、ブリュッセル、アムステルダム、パリ、ベルリン、ケルン、ミュンヘン、ウィーン、ミラノ、マドリードの主要美術館と現代美術を扱っている画廊を中心に見て回りました(第2回目に紹介した概論の講義は、このときの旅をもとにしています)。

とにかく見に行くことを主目的としていた最初の旅行では、写真にお金かけるという意識がまるでなく、「写ルンです」を持って行きました。2度目と3度目の旅行には、さすがにズームレンズを付けたペンタックスの一眼レフを持って行きましたが、まだネガフィルムに日付入りで撮っています。ポジフィルムを持って行くようになったのは95年の第46回展です。ヴェネツィア・ビエンナーレ100周年の記念すべき回、ということで、再び出掛けたのでした。このとき、中古で買ったオリンパスのOM-IIに、やはり中古の40mm/f2レンズ(ズームレンズより明るい)を付けて、デイライト用とタングステン用の2種類のポジフィルムを準備し、合計1,757枚の作品写真を撮影しました。

93年のヴェネツィア旅行で使用したフィルムが10本。それに対して95年に使用したフィルムは51本に増えました。

なぜ、そんなにたくさんの作品写真を撮ったのか。前回の記事を書いたあと、ずっと忘れていたことを思い出しました。当時、「ヴァーチャル・ミュージアム」という言葉が注目を集め始めていて、私はほとんど、その考えに熱狂していたのでした。100周年のヴェネツィア・ビエンナーレの展示を再構成できるくらいの写真を撮ろうと、展示室ごとにさまざまな角度から撮り続けていくうち、帰りの荷物が肩に食い込むほどの本数に達していました。

2009年の現在、いくつかの美術館のサイトにヴァーチャル・ギャラリーのメニューがありますが、あれから15年の歳月が流れたことを考えれば、この領域はほとんど進歩していない、という気がします。かつての静止画1枚を表示させるのにもイライラするほど時間がかかった時代から、今や高精細な動画をストレスなく楽しめる時代へと、インターネット上のデータ転送速度は大きく向上しました。他方、3D空間を自在に散策して美術作品をBGM付きで鑑賞したり、よその国からアクセスしている人と同じ作品をめぐってリアルタイムで意見交換したり、というニーズは開拓されず、むしろ美術作品こそヴァーチャルでない本物との対面が必要だ、という考えが広く浸透し、さらにはオーディオガイドの普及によって鑑賞体験は一層個人化したように感じます。

ある種の美術作品は永遠の存在でも、展覧会自体は、会期が終了すれば消滅してしまう時限的な存在です。また設営美術、設置美術―適訳がありませんが要するにインスタレーション―のような形態をとる現代作品の多くが、場の特性(=サイトスペシフィシティ)を作品の要素として含み込んでいるため、発表の機会が違えば、それらはすべて「異なる」作品である、という理解も成り立つ状況が出現しています。

現代美術を考察するための基礎的な作業として、展覧会を再構成できる枚数の写真撮影が必要だ、という考えは私の中で強くなる一方です。

19950618blog.jpg崔在銀の作品で外観を一新した日本館 1995年6月18日13時頃(晴れ)




年度末ということもあって、昨秋訪れたマニフェスタ7の調査報告書を作成しています。並行して、明日〆切の雑誌原稿も書いていますが、これも国際美術展の特集号への寄稿なので、要するに今、頭の中は国際美術展のことでいっぱいです。

国際美術展に関心を持つようになったきっかけは、修論のテーマにニュー・ペインティングを選んだことから、美術雑誌のヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタの記事をコピーしたり、まとめ直したり、といったこともやっていたのですが、より強い動機づけになったのは、1992年9月にワタリウム美術館で開催されたドクメンタIXのスライド・レクチャーでした。

国際美術展のスライド報告会は、現在、頻繁に開催されています。東京に限らず、山口や九州でもそうした機会はありますし、また日本以外でも同じような状況ではないかと思います。スクリーンに大写しにされた写真やヴィデオ映像とともに会場を見た感想が語られる報告会は、雑誌の記事を読むより格段に臨場感があります。

しかし、それだけではありません。そもそも2009年の現在と1992年当時では、現代美術をめぐる国内の環境が大きく違っていました。作品の先鋭さと展覧会の規模、そしてキュレーター、ヤン・フートが展覧会に込めた社会的メッセージなど、さまざまな点でスライド・レクチャーで紹介されたドクメンタIXは、私がそれまでに国内で見ていた現代美術展と大きく異なっていたのです。

当時、「八王子ゼミ」と呼んでいた大学の研究室の合宿があって、毎年1回、2泊3日や1泊2日でセミナーハウスに泊まり込み、学部生から院生までがそれぞれの研究テーマの時代順に発表を行っていました。1993年2月の合宿で、私は「国際展と現代美術」と題して発表しました。

発表を行った時点で、私は国際美術展を実際に見てはいませんでした。発表内容も、国際美術展にどのようなものがあるか、それらが現代美術を考える上でいかに重要な役割を占めているか、といった点が中心でした。

実際に見たのは、1993年のヴェネツィア・ビエンナーレ第45回国際美術展が最初です。会期終盤の10月3日から10日までの8日間の滞在で、思えば、このとき長期間にわたって水の都ヴェネツィアを散策しながら、世界各国から集まった作家たちによる現代美術展を見て回る、という滞在生活を心底楽しんだのが、いいかたちで今につながったのでしょう。

探しにくい場所で開催されている国別の展示や、会期の短い企画展を見逃すようなことがあっても気にならず、すべての作品の写真を撮ろうとして時間に追われるようなこともなかったのは、学生だったから、の一言に尽きると思います。

昨年11月にYCAMの湯田アートプロジェクトのレセプションのために来山されたMonochrome Circusの坂本公成さんと森裕子さんにご挨拶したとき、同じ93年の第45回展を見ていた、という話で盛り上がりました。遠い昔の記憶だからこそ、人と共有できたときの嬉しさはひとしおです。


雑誌やネットの記事、スライド・レクチャーを通して国際美術展を知っているけれども、あるいはまた国内で開催されている横浜トリエンナーレなどへ出掛けたことはあるけれども、ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタへ出掛けたことはまだない、という人は多いと思います。

若い人なら学生のうちに、仕事のある人なら家庭を持つ前に、夫や妻のある方なら子どもを授かる前に―いろんなタイミングがあると思いますが―いずれにしても、滞在日数に少し余裕がもてるタイミングで出掛けられることをお勧めします。


今年のヴェネツィア・ビエンナーレ第53回国際美術展は、6月7日(日)から11月22日(日)までです。

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カステッロ公園の並木道(正面奥にイタリア館、中空に元永定正《水》) 1993年10月3日16時頃(晴れ)


「weavingscapes―紡景」展のオープニングへ行ってきました。同展は、秋吉台国際芸術村で滞在制作を行った3人の美術家たちの成果発表展です(3月7日-17日)。

芸術村の滞在制作事業は、1998年の設立以来、毎年開催されています。今年度は49カ国185組の応募の中から、タイ出身のジャクラワル・ニルサムロン、アメリカ出身のアマンダ・J・ヒル、そして柳本明子さんの3人が選ばれました。

ニルサムロン―本人から聞き取った発音は「ジャッカーワン・ニータムロン」でした―は、《人と重力(Man and Gravity)》(約22分)という神話的な映像作品を完成させました。「人と重力」は、すでにタイ編が完成しており、今回の秋吉台編制作後も撮影を続け、シリーズ化する予定だそうです。会場ではタイ編と秋吉台編の2本を見比べることができます。
タイ編では、ゴミ集めを仕事としている男が、大きなゴミの山をバイクの脇に繋いで荒野を運んでいく様子が、淡々と、ロード・ムービー風に描写されます。
秋吉台編では、自分よりも巨大な鈴を引きずって歩く男が、森の中で女性の話を聞いたり、自分よりも年老いた息子と対話します。自分より年老いた息子という設定は、物質世界ではありえない設定ですが、「精神世界では可能」というのがニータムロンの考えで、カルマ(業)や輪廻転生について考えさせる内容になっています。3人の登場人物は、いずれも地元の人にお願いし、秋吉台の山焼きの光景も効果的に挿入されていました。

ヒルの作品も映像ですが、彼女は、日常生活の音に注目する作家です。山口で出会った人々に「音の日記」をつけてもらい、それらの映像と音を編集して「山口の音の風景」(約20分)を作り出しました。
梅の枝を切る音、商店街を走る自転車の音、湯田温泉の足湯の流れ出る音、そして精米所の籾殻の山が崩れてさらさらと流れ落ちる音など、山口を感じさせつつも、普段気づかない、あるいはまったく知らないような音も含まれていて、しかもそれらが関連性や対照性を織りなすように、とてもうまく編集されていました。
昨年7月にYCAMで大友良英さんとアンサンブルを行った、石井栄一さん(自作の電子楽器を操る中学生)も参加しています。

柳本さんの作品は、透明ビニールを支持体として、パステル色の毛糸や蛍光色の細いビニール・チューブで室内風景を編み上げたものでした。
葦簀(よしず)に編み出された古い日本家屋の廊下の風景は、秋芳町のあちらこちらに置かれ、町の人々の目に触れている様子がヴィデオに記録され、上映されていました。葦簀の作品も、施設の野外劇場の舞台中央にワイヤーを使って自立するように展示されていました。
ギャラリーには、もう1点、こたつのある室内を編み出した作品が宙づりにされていました。
どちらも独特の色彩感覚で、地元の人々のお宅を訪ねて取材した室内風景をもとに構成したもので、好感の持てる作品でした。

総じて、「景色を紡ぐ」という展覧会タイトルが、とてもしっくりくる滞在制作展だったと思います。

オープニングに合わせて、あいちトリエンナーレのキュレーター・拝戸雅彦さんと、山口大学教育学部准教授で、国際美術展などでも活躍している美術家・中野良寿さん、そして3人の滞在美術家を交えたトーク・イベントも行われました。
拝戸さんは、「3人の作品は秋吉台を題材にしているが、その手法は他の地域にも応用可能で、作品のテーマにも国際性、普遍性がある」、「それぞれきちんと作り込んであって、しみじみと見ることができた」と高く評価する一方で、「東京や愛知からわざわざ人が見に来るようになるには、最低10人くらいの規模が欲しい」と建設的な注文をつけました。
中野さんは、「7年前に山口に赴任して以来、芸術村の滞在プログラムに参加したほとんどの作家と交流してきた」と自己紹介の際に語っていました。また、司会進行も務められ、1人1人の経歴や今回の滞在制作の様子について、丁寧に聞き出していました。

トーク・イベントには、14歳の石井さんから72歳のおばあさんまで、取材を受けた人や、出演した人など、さまざまなかたちで滞在制作に関わった約30名の人が集まり、熱心に話を聞いていました。毎年の作家数は少なくとも、交流の実績は着実に積み重なっている、と感じました。

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トーク・イベントの様子(左から、ジャクラワル・ニルサムロン、アマンダ・J・ヒル、柳本明子、中野良寿、拝戸雅彦の各氏) 2009年3月7日15時56分(晴れ)



昨日は、山口情報芸術センター(YCAM)のダンス公演を見ました。珍しいキノコ舞踊団×plaplaxによる「The Rainy Table」です。

珍しいキノコ舞踊団は、伊藤千枝さんが主宰するダンスカンパニーです。1990年の結成で、すでにかなりの活動実績があります。近年は現代美術の世界でも注目を集めており、2006年には金沢21世紀美術館でオーストラリアの美術家との共同制作を行ったほか、07年にはインドネシアで開催された「KITA!!」展に招待されています。

公演は、女性6人で構成されており、独自の世界観や統一感が感じられました。やわらかさやかわいらしさ、そして激しさや力強さを感じる舞踊でしたが、男性の踊り手が登場しないことによって、男女の対比・対照という観点が舞台からごく自然に除外され、ある種、「非日常的な世界」に没入できる、という仕掛けになっているように思いました。

「ある種」と婉曲的に表現したのは、女性の観客にとっては女子校や、幼稚園・小学校の母親同士のつき合いなど、「女性社会」は、かえって日常的で、現実味のある世界なのかも知れない、という思いがよぎるからです。
美術館や劇場などの文化施設も、女性スタッフの割合が高い職場になって久しいように思いますし、私が所属する人文学部も、女子学生の方が圧倒的に多く、研究室の男子学生は毎年1、2名です。女性ばかりの世界は、男性の私にも案外、「身近な」世界だったように思えてきます。

ポストトークで伊藤さんは、「雨と馬とテーブル」というキーワードから出発した、と話されていました。テーブルは「家族や人が集まる場所」で、これまでにもよく登場した題材だそうです。雨は「自分の意思と関係なく外からやってくるさまざまのもの」の象徴で、今回、「傘を差したりしてよけるのではなく、浴びたらどうだろう」という思いが込められている、と言います。馬は「それでも誰かに導いてもらいたい、という思いがあって」という文脈で登場したようですが、公演が完成してみると「結局、私自身かも知れない、という気がしています」とのお話に、共感できるものがありました。

女性がテーブルにつっぷしている場面が、始めと終わりに繰り返され、最後は大音量の雨音の中、テーブルに積み上げられた食べ物やお酒を、6人が猛烈な勢いで飲み、喰らい、大騒ぎする場面で照明が落とされます。

幕間に、映像として大写しにされた馬の首が、男性の声で「人参じゃ、馬力出ない」など、結構笑える独白をする場面がありましたが、この挿入によって、男性は一層実態のない「影」のような存在として意識され、とても効果的だったと思います。


同公演は、YCAMの開館5周年記念事業として、約1カ月間にわたり、山口で滞在制作された新作です。YCAM の紹介で、メディアアートユニットplaplax(近森基・久能鏡子・筧康明)と共同制作を行ったことが、特色の1つとなっています。

踊り手と馬のシルエットが共演する場面は、plaplax設立以前の代表作《KAGE》(1997年)を想起させ、見どころの1つとなっていましたが、私は、舞台後半で、大小さまざまの踊り手の映像と、舞台上の女性たちが複雑に入り混じって乱舞する場面が、最大の見どころになっていたと思います。

「舞台上では直接人間に指示すれば、すぐ直せるけれど、映像との組み合わせでつくる公演では、取り直しと編集作業があって、そこに独特の時間が生まれる」という趣旨の発言が、伊藤さんとplaplaxの双方から出ました。

「メディアと身体」をめぐるYCAM開館以来の挑戦が、また1つ新たな成果を生んだことを実感しました。

同公演は、3月19日(木)から22日(日)までの4日間、世田谷パブリックシアター/シアタートラムでも上演される予定です。

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リハーサル風景 2009年2月27日21時00分 提供:山口情報芸術センター[YCAM] photo:Ryuichi Maruo(写真:丸尾隆一)



ヴィクトル・I ・ストイキツァの講演会へ行ってきました。

演題は「集中そして/あるいは蒸発――肖像・自画像・『現代生活』」。ストイキツァは、現在、スイスのフリブール大学で教えている美術史家で、日本では2001年に『絵画の自意識』が翻訳・刊行されて話題になりました。その後も『ゴヤ』、『ピュグマリオン効果』、『影の歴史』、『幻視絵画の詩学』などが邦訳されています。

2003年に続いて2度目の来日で、今回は2月22日(日)に福岡市美術館、24日(火)に京都大学吉田キャンパス、27日(金)に東京大学駒場キャンパスと予定が組まれており、ちょうど今国内を移動中です。福岡と京都の演題は同じで、東京では「カラヴァッジョの天使たち」となっています。私が出掛けたのは福岡会場でした。

福岡では「レオナール・フジタ展―没後40年」の記念講演会としての開催でした。冒頭に藤田嗣治の自画像がプロジェクターで数点映写され、「フジタの眼鏡は、単なる視力補助の手段ではなく、視覚世界を探究し、絵画化する画家の存在様態を象徴的に示す役割が与えられている」という、ストイキツァらしい言及がなされました。『絵画の自意識』にも同じように眼鏡に着目しているくだりがあります(415頁)。

「フジタは重要な作家だと思うが、彼について語る準備が自分は十分でない。彼が参照することが出来たであろう、パリで一世代前に活躍した2人の画家、マネとドガについて私の考えを述べたい」とストイキツァは話を切り替え、ボードレールのアフォリズム集『赤裸の心』にある「自我の集中と蒸発について。すべてがそこにある」という言葉を参照点として、肖像画や自画像における顕在化(≒集中)=マネ、隠蔽(≒蒸発)=ドガという整理をもとに、両者の対照性や複雑な影響関係を読み解きました。

特徴的な例は、競馬場を主題とした2人の作品で、マネは競走馬が走ってくるトラック内に画家の視点を据え、こちらへ向かってくる馬の様子を描いているのに対し、ドガは休んでいる騎手たちを描いて、画家はどこか物陰からそうした光景を眺めているように感じられる、と説明しました。

両者の関係は、単に対照的であるにとどまらず、複雑な入れ子構造として読み解かれていたため、メモをとりながら聞いてはいたのですが、全体を細部まで思い出すことはできません。それだけ濃密な内容で、いつか再び、本としてまとめられたものを読んでみたい、という気にさせられました。

そうした中でも、1832年生まれのマネと、1834年生まれのドガは2歳しか違わない、という事実は強く印象に残りました。この2歳違いという近さと隔たりが複雑な磁場を象徴しているように思えます。


講演会終了後に見たフジタ展では、同館所蔵の《仰臥裸婦》とその下絵《腕をのばした大きな裸婦》の比較展示や、ウッドワン美術館所蔵の油彩作品《イヴ》とフランスの個人蔵による版画連作「イヴ」をまとめて展示した一画が大変興味深いものでした。

前者では、特に顔に注目すると、油彩作品で理想化されていることがわかります。
また後者の見どころも油彩作品における理想化ですが、その違いは目覚ましいものです。鼻の稜線に隠れていた右眼や、左手の後ろに隠れていたもう片方の乳房をはっきりと描き、髪の毛に躍動感を与え、花々からなる髪飾りをより豊かにする、などが主な変更点ですが、両者を見比べる楽しみは、展覧会ならでは、と言えるものでした。

20090222blog.jpg福岡市美術館講堂(壇上右=ストイキツァ氏、同左=松原知生氏) 2009年2月22日14時43分(外は雨) 提供:福岡市美術館

*講演会写真についてストイキツァご本人にウェブ掲示の許可を頂くにあたり、担当学芸員の三谷理華さんと、西南学院大学準教授の松原知生さんに迅速なご対応とご協力を頂きました。心よりお礼申し上げます。

2009/2/27追記
東京での講演会は、2/28(土)にも日本橋公会堂(主催:京都造形芸術大学ほか)で予定されていました。そこでの演題はやはり「集中そして/あるいは蒸発――肖像・自画像・『現代生活』」です。
学生たちと津和野へ行ってきました。

毎年この時期、卒業生の「追い出しコンパ」を兼ねて、1泊2日の小旅行へ出掛けています。企画は研究室の3年生の担当で、2007年は萩に泊まって山口県立萩美術館・浦上記念館を見学したり、高杉晋作誕生地などの歴史的な街並みを散策し、2008年は三隅町立香月美術館を見学して、湯免温泉につかりました。

津和野へは、山口から電車で約1時間20分。街全体にくつろげる雰囲気があって、小旅行にはぴったりの場所でした。

初日は朝10時頃出発してお昼前に旅館にチェックイン。五大稲荷の1つと言われる太皷谷稲成神社へお参りし、西周旧居、森鷗外旧宅を訪ねて、杜塾美術館を見学しました。
杜塾美術館は、津和野藩の筆頭庄屋屋敷を修復した美術館で、同地ゆかりの中尾彰・吉浦摩耶夫婦の作品のほか、マドリード国立銅版画制作室によって1983年に制作された、ゴヤの「闘牛技」40点が展示されています。

帰り道、本町通りで地酒の味見ができました。初陣、魁龍、華泉と銘柄ごとに造り酒屋が並んでおり、普段はお酒を飲まない学生も、少量ずつ味の違いが比べられる機会を楽しんでいました。

今日は、津和野町立安野光雅美術館と葛飾北斎美術館を見学しました。

安野光雅美術館は2001年開館と比較的新しく、2つの展示室のほか、昔風の小学校の教室や安野光雅のアトリエ、プラネタリウムなども併設されています。
故郷というものが、誰にでもある子ども時代のことだとしたら、そうした「故郷」へと通じる道が津和野にはある、といった趣旨の安野光雅さんの言葉が紹介されていて、心に残りました。

葛飾北斎美術館は、初刷りの『北斎漫画』が津和野で発見されたことを機縁として設立された美術館で、肉筆画や浮世絵版画、門人の作品や資料などが展示されています。


学生たちと一緒にこうした美術館を巡りながら、私は、安野光雅さんについて卒論を書こうとした学生がいたことや、私が着任してからの過去7年間に葛飾北斎について2本の卒論が提出されていることなどを思い出していました。

津和野は島根県、という意識ではなく、山口から1時間ほどで行ける「山口圏」と考えて、北斎についての研究室蔵書や、学生に紹介する機会を増やしていこう、と考えたのでした。

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津和野町立安野光雅美術館 2009年2月20日14時31分(曇りまたは小雨、のち晴れ)

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